今でこそ化学の力で自在に色を作り出すことが可能になりましたが、近代まで、植物や鉱物などの自然と乖離した「色」を考えることはできませんでした。ここでは、万葉集にある歌に詠まれたいくつかの染色を試みながら、いにしえに思いを馳せることといたしましょう!特に、今や稀少種となったムラサキ草の根から紫色素を抽出、定着し、古代に君臨していた王朝の色を復活させてみることにしました。
「画 像」国内自生地はすでに壊滅、幻の野草と言われるムラサキとその根(紫根)
「操 作」※あまりに労力と根気を要するため簡略版
乾燥紫根から染料を抽出(70度以下)、生地を傷めないよう軽い絞りをくり返す。
アルミイオン下(ミョウバンなど)で媒染を繰り返し、陰干し。
「注意と工夫」
「解 説」
王朝の色…聖徳太子の制定した冠位十二階の最上位が紫であり、古代ローマ時代に皇帝以外の者が身につけてはならない禁色とされてきた史実からも、紫色が貴い色として古来より珍重されてきたことがわかります。もっとも、遠き地中海沿岸のローマやエジプトでは紫草ではなく、貝のパープル腺から得た、いわゆる貝紫ではありましたが・・・(弥生時代の日本でも貝紫染色が行われていました)。
紫染料が時代、洋の東西を問わず大切にされてきた理由の第一は、その希少性にあり、その点紫根の例はもちろん、貝紫も同様でありました。ですから、かのエジプト女王クレオパトラは帆船をすべて貝紫で染めたなんてとんでもない伝説が残ることになったのでしょう。古代においては、「紫色」の使用そのものが権力の象徴、最上の贅沢であったのです。しかし、19世紀になってイギリスのパーキン(Perkin※)がアニリンを酸化して得られる色素(mauveモーブ)を発見し、人造染料の大量生産への道が開かれると、動植物を原材料にした天然の紫染めは次第に顧みられなくなったのです。その結果、ムラサキの栽培が壊滅したことはもちろん、多くの苦労を要する伝統的なノウハウの多くが消えてしまったわけです。
※パーキンPerkinはその後、やはり染料となるアカネの色素アリザリンの合成にも成功しています。
希少種「ムラサキ」…原料のムラサキですが、先述の通り、現在では自生地の確認は至難とされているほどにその数を減らしているとのこと。次の、万葉集の代表歌が詠まれた頃は、日本各地の草原にムラサキ草が自生していたはずですが、今やスギや雑木林、農業用地の開発や帰化植物の勢いに押されて、自然状態でその姿を目にすることは不可能、幻の野草と呼ばれる由縁です。
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る
額田王 巻一 20
これは、額田王が、天智天皇のご領地(近江の蒲生野)での薬狩りの折り、かつての恋人大海人皇子にあてて詠んだ有名な歌です。次の大海の返歌にも、やはり「紫」詠まれています。
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
大海人皇子 巻一 21
金属イオン種の媒染作用:ムラサキ草(紫草=Lithospermum erythororhizon Sieb. et Zcc.)は古くから外傷,腫瘍,火傷,湿疹等に処方されてきましたが、シコニンという興味深い生理活性成分を含んでいます。シコニンは紫色を呈し、ムラサキ草が「紫」言われる所以はこの色素を含むからに他なりません。実際には、根には、アセチル誘導体数種が含まれているようです。シコニン分子は、キノン構造を持っているので、希アルカリで構造が変化することがわかります。一般に、植物染料は金属イオンと結合(配位)による呈色を利用するものが多いのですが、このシコニンも水酸化ナトリウム水溶液中で、フェノール系分子に特有のキレートを構成し、やや青い紫色を呈するようになります。また、このキレートは、水に不溶で繊維に固着しやすく、酸やアルカリにも強いので染料として効果を高める役割を果たすのです。ちなみに我が国の初の女性理学博士である黒田チカ先生は、この色素(Shikonin:シコニン)の研究で、その物質の構造の解明を行っています。物質名シコニンの命名も、彼女の論文「紫根の色素に就いて」(大正7年:1918年)でなされたものです。
媒染剤としてのツバキ:実験で行った媒染は、植物色素がアルミニウムイオンや鉄イオン等の金属イオンを結びついて、木綿や紙の繊維に発色定着する効果をあげるための作業です。手軽な媒染剤として、酢酸アルミニウムを使いましたが、古くは、アルミニウムイオンを多く含む植物が使われていました。植物の媒染剤を特に灰汁(あく)といい、古くからヤブツバキを始めとする植物の灰が用いられてきました。特にツバキによる媒染作業の歴史は古く、万葉歌にも紫染色にツバキの灰が使われたことが詠みこまれています。次の歌にある海石榴市(つばいち)とは古代都市の名ですが、「つば」と染色に使う「ツバキ」をかけ、紫色がツバキの灰によって鮮やかに染まるということを意味しています。
紫は灰さすものそ海石榴市の 八十のちまたに逢へる児や誰
作者未詳 巻十二 3101
◇追 加
万葉の歌と植物…万葉集には、自然の豊かさを愛でた歌がたくさん詠み込まれており、それらの表現の多くから当時の人がいかに人間と自然を一体の存在して見なしてきたかを伺い知ることができます。特に、色彩感覚の豊かさ敏感さには驚かされるものがあり、それだけ色への執着心があったことを思わせます。いまでこそ化学の力で自在に色を作り出すことがかなうようになりましたが、当時は自然と乖離した「色」を考えることはできなかったでしょう。また、歌に詠み込まれた植物の中には現在のどの植物に該当するのか不明なものもあり、作者の存在や前後の文脈、詠まれた場所の地理や気候条件などを科学的に考証して、植物名を探り当てるというのもなかなか趣があります。染液素材の例としてあげたいくつかの植物について関連の歌を紹介しますので、千数百年前の万葉時代に思いを馳せてみましょう。
ケイトウ(からあゐ)
我が屋戸やどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど 懲りずてまたも蒔かむとそ思ふ
山部赤人 巻三 384
『歌意』 我が家の庭にからあい韓藍の種を蒔いて育て、それがもう枯れてしまったが、性懲りもなくまた蒔こうかと思っている。
ケイトウは、花の赤い部分はもちろん、葉も写し染めに使われていたと言われています。「からあゐ」という呼び名は、韓(から)の国、つまり大陸よりやってきた「藍」の一般総称でもありますが、万葉では、赤い花をつけるケイトウを指したものと解されているようです。ちなみに、呉(くれ)の国から渡来したのが、紅(くれない)、つまりベニバナであるそうです。
アサガオ(あさがほ)
展轉び恋ひは死ぬともいちしろく 色にはいでじ朝貌の花
作者不詳 巻十 2274
『歌意』恋焦がれ、もだえ死のうとも、はっきりと顔色には出しませんとも、あさがほの花のようにはね。
ツル性アサガオ…現在のアサガオは、万葉時代にはまだ伝来しておらず、「キキョウ」や「ムクゲ」のことを詠んだのではないかとする説も有力です。アサガオの絞り汁は次のように、酸やアルカリによって鮮やかに色変化します。
桃花褐つきそめの浅らの衣浅らかに 思いて妹に逢はむかも
作者不詳 巻十二 2970
『歌 意』桃染めの色の浅い着物のようにあっさりと軽い気持ちであなたと逢ったりするものですか。現在の美味なモモとは違い、当時のものは食用には向かず、せいぜいつけものにしていたとのこと。もっぱら染色用に育てられていたという説もあります。デザートの桃汁をうっかり服に付け、シミを作ってしまった経験はありませんか?そのことからも、桃染めがわりと簡単であることがわかります。桃染めの色は、古代律令時代に官位の色に指定され、衛士などの下級役人の服色としてにさかんに用いられたようです。
オミナエシ(をみなへし)
ことさらに衣は摺らじ女郎花 咲く野の萩ににほひて居らむ
作者不詳 巻十 2107
『歌意』わざわざ衣を女郎花で摺り染めにはしまい。佐紀野に咲き乱れる萩に染まるのに任せていよう。
「衣は摺らじ」から、染色に使われていたことがはっきりと読みとれます。秋風にゆらゆらとその身をなびかせる姿をとして女性に見立てたことから「女郎花」と呼ばれるようになったそうです。かつては日本全国各地の草原で見られた花ですが、最近はすっかり影をひそめ、なかなか目にすることができない花となっています。
ツユクサ(つきくさ)
鴨頭草に衣色どり摺らめども うつらふ色と言うが苦しさ
作者不詳 巻七 1339
◇「指導・助言・協力」 永留真男、石川真咲(国営武蔵森林公園) 神谷隆(千葉県)
◇参 考
・日本の色辞典(吉岡幸雄 紫紅社)
・草木染技法全書(山崎青樹 美術出版社)
・万葉植物事典(山田卓三 中嶋信太郎:北隆館)
・ムラサキの観察と栽培(大滝末男 ニューサイエンス社)
・梅本和高「ムラサキの根色素成分単離とそれらを用いた・・・」鳴門教育大修論
◇このブログで発信する情報は、取扱いに注意を要する内容を含んでおり、実験材料・操作、解説の一部を非公開にしてあります。操作に一定のスキル・環境を要しますので、記事や映像を見ただけで実験を行うことは絶対にしないで下さい。詳細は、次の3書(管理者の単著作物)でも扱っているものがありますので参考になさってください。